正覚山 福成寺

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福成寺寺宝

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釈迦如来立像

福成寺は堺の釈迦堂と言われる通り、釈迦如来像を本尊として本堂の厨子内に安置しています。この御釈迦様の尊像は清凉寺式釈迦如来立像と呼ばれるものです。なぜ清涼寺式と付くのかと申しますと、福成寺の釈迦像は京都嵯峨にある清涼寺の釈迦像に由来があるからです。

京都嵯峨の清涼寺にある釈迦像は、東大寺の僧奝然(ちょうねん)上人によって中国の宋から日本にもたらされたもので、インド~中国~日本に伝わったことから三国伝来の仏として多くの信仰を集め、現在は国宝に指定されています。この三国伝来の釈迦像に対する信仰の高まりと共に、平安時代後期から模刻が始まり、鎌倉時代には隆盛期を迎えました。この模刻された釈迦像を清凉寺式釈迦像といい、その特色に縄目渦巻状の髪部、通肩でしかも胸を中心とする同心円状の衣文、二段の裳裾、施無畏与願の印相があります。福成寺の本尊も、この要件を満たしています。施無畏与願の印相とは、右手を上げ手を開いて手のひらをこちら側に見せる形で、説法を聞く人の緊張を和らげ「畏れなくても良い」と優しく語りかけている「施無畏印」、左手をたらして手のひらを開きこちら側に見せる形で、人々のさまざまな願いを聞き入れ、それを叶えることを示す「与願印」のことです。

福成寺の御釈迦様は約500年間もの間、福成寺の厨子内に安置され、これまで多くの方々から信仰され大事にされてきました。そして、これからも穏やかで温和なお顔で多くの方々の願いを聞き入れて下さることでしょう。本像は堺市内唯一の清凉寺式釈迦如来立像として歴史的にも文化的にも大変貴重な尊像です。

八相涅槃図

八相涅槃図とは、お釈迦様が入滅される光景を描いたものです。八相涅槃図には大略して二形式あります。いずれも御釈迦様の涅槃図を中心とし、周囲に涅槃に至るまでの事蹟を配するものと、涅槃前後の事蹟を配するもので、本図は後者に属します。

本図は鎌倉時代に製作された京都市万寿寺の常用文化財である涅槃図と事蹟の配置が一致し、図様も似ています。しかし、各場面は他と明確に区別され、画面全体が綺麗に整理されています。涅槃図の軸木に墨書名が発見され、それによると、永正十二年(1515年)七月八日に紀三井寺瀧本坊において南都住人荼三郎なる者が製作したと記録されています。荼三郎については、鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した奈良の仏教絵師集団である南都絵所に所属した絵師であろうと考えられています。また本図の箱所によると、現在の箱は延宝二年(1674年)に堺の北樽屋町次兵衛など4名の寄進とあり、延宝二年までに福成寺に移入されたものです。

大きさは229.4cm×213.8cmの大涅槃図です。本図は、現在のところ堺市内最古で最大の涅槃図であり、制作年月日及び伝来が知られる大変貴重な涅槃図です。

絹本著色涅槃図

当寺の絹本著色涅槃図は、お釈迦様が入滅される光景のみを描いたものです。制作時期は室町時代から江戸時代とみられています。本図の構図は、1451年に宮廷絵所の絵師土佐行広によって描かれた涅槃図と図様が似ています。お釈迦様が入滅された時の様子は、大般涅槃経にこのように残されています。

お釈迦様は深い瞑想(第四禅地)に入られ、大涅槃に入り給うた。この時、お釈迦様の十大弟子の一人阿那律尊者は、はじめて大衆に告げた。
「世尊は今、大般涅槃に入られました。」
これを聞いた大衆は一同に、大声をあげて泣き出した。気を喪う者、手を挙げて頭を叩く者、胸を打って泣き叫ぶ者、みな気も狂わんばかりに悲しみ嘆いた。虚空からは天人たちの涙が雨のように降ってきた。無上の仏法はまさに衰亡し、甚深の法河はここに枯れ尽き、大法の明灯はたちまちに滅えんとする様である。沙羅双樹の林は、変じて白きこと白鶴のようであり、大地は一時に震動し、天鼓は自然に鳴り響き、須弥山はにわかに揺るぎだした。天地は嘆きの声が満ちた。

とある。まさに当寺の涅槃図は、御釈迦様が大涅槃に入られた時の大衆の慟哭をありありと伝える迫力ある涅槃図です。